先日のCCMオープンカフェの交わりで、あるキーワードがありました。
それは
「家族をつくりたい」
集まったメンバーは、結婚を祈り始め、動き始めたばかり…
(と、動いてすぐに出会えて婚約に導かれたカップル)
という方が多かったのですが、
「どうして結婚を祈り始めたのか?」
という話題について、
この声が多かったのです
「家族をつくりたい」
「一緒に教会に行く。ご飯の前に一緒に祈る。」
「子供ができたら、家族で礼拝に出て…」
とても素敵なイメージで、とても素敵な理由だと思いました。
それで充分だと思いました。
それが、きっと神様の御心なのかもしれない、と思いました。
でも、このシンプルなヴィジョンに、
だんだん考えていくうちに
「あこがれ」が入ってきます。
一緒に礼拝するお相手の顔や容姿、若さのイメージ
礼拝する教会や礼拝の仕方…
自分の理想の絵がふわわん、ふわわんと膨らんでいく…のかもしれません。
ひいては、出会い方までも想像が膨らんで……
そして、それを「御心だ(であってほしい)」と思うようになるのかもしれません。
経験から、また結婚された先輩方の多くの証から
「神様の御心は、あこがれにも思わない、思いもよらない所にある」
と言えると思います。
そして
「神様の御心は、これがきっとそうだと思えるほど確かで納得できるもの」
と思います。
どんな形かは、一人一人に神様がオリジナルのものを用意してる。
だから「あんなふうに…」という、誰かの形をなぞるような、頭の中の憧れ、とはきっと違うのかもしれない、と思います。
出会いのお手伝いをする立場としては、
「とにかく会ってみて」とおすすめをします。
それは、あこがれが御心の妨げになって、機会を失うことがないように、と願っているからです。
なぜ、そう願うかというと、私自身が、
私の結婚は私がもっていたあこがれと違い、あこがれを横に置いたときに神様の御心のように導かれた経験があるからです。
「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ。芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このようにわが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」 (イザヤ55:9-11)
「御国がきますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」 (マタイ6:10)
祈りつつ…